いちの木の小屋と山

昭和~~な小屋をリフォームしたり、山やったり畑やったり、猪捕ったり、いろいろやって生きてます

第2の皮膚

 

再度、映画「フリーダ・カーロの遺品」を観てきました。

 

今回は全体の流れがより繋がって見えた。

死者と生者

伝えられた物、人から人へ

偶然の出来事も重なって

上手く編集されてるな、と感じた。

 

上映後には小谷監督と石内さんのトーク

 

 

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かつて存在した人が所有した ”物” を撮っている、のではない。

身につけていたものに対峙しているということは

その人が、そこに存在しているも同様。

念写されたかのように

そこにその人自身が投影されているのだ。

だから私は過去を撮っているとは感じていない。

今もそこに、その遺品に、その人が感じられるのだ。

と、石内さん。

(ごめん、うまく伝わらないかも

テープ文字起こしじゃなく、メモ書きと印象によりますんで。)

 

小谷監督は

服は内面世界と外面世界の狭間にある。

祖母から母へ、そして娘へと受け継がれていく伝統衣装。

死もひとつの日常、「死者の日」の祭りとからめて。

(また、こりゃ箇条書き風になってもうた。)

と言う。

 

フリーダと石内さんとの出会いが

小谷さんの切り取った

映像と編集によって

過去と現在

時空を超え

不思議と混じり合っていた。

 

美しかった。

 

 

 

私は石内さんというアーティストをこれまで知らなかった。

 

Mother's

ひろしま

という、遺された衣服を撮った作品を発表しているということも。

 

石内さんの言葉が

私の気持ちに

すぽすぽ入ってくる。

 

衣装は中(肉体)に足りないものを補完する物。

一番外側にある皮膚

完全に皮膚であり

その人そのものである。

 

衣装を撮ることにで

その肉体も含めて撮れたらいいな、と思っている。

という、石内さんの言葉。

 

 

 

映画の中でも

衣服は第2の皮膚である。

というオアハカ州、イスモ地方の

刺繍家の言葉が出てくる。

 

 

 

モードは自己表現の手段だ!

なんちゅう言葉はよく聞くけど

いつもピンとこなかった。

 

多分それがモードであるから。

モード=時代の服装、じゃん?

自己表現という言葉も鼻につくし。

 

でも、ここで述べられた「自分の皮膚も同様」という言葉は

しっくりきて、

私がなぜこれまでテキスタイルにかかずらってきたのか

腑に落ちたような気がする。

 

布って

その質感や色や光沢のありなしや

そんな微妙な違いが

こう、ぐっとくるのよね。

 

ましてや

手仕事で柄が描きこまれていたり

手縫い、手かがりでふくらみが変化してたりだったら

生きてるみたいなさ、

生命力感じるのよね。

それは、トーク中のお二方も語ってらしたわ。

 

お話聞けて、良かった。

 

 

胸から上が充血したみたいな気分で

ぼわっ、としてるから

パン屋さんに入って

パン食べ、珈琲飲み

しばらくぼーーーーっとしてました。

 

 

 

 

で、本日はちょっと日がでてたので

布のストックをひっくり返して

虫干しした。

 

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一番危険そうな

古い着物、端切れの入った段ボール。

 

大きな黒蟻、羽蟻が出るわ出るわ

本当に虫干しです。

 

 

手仕事の

こんなとこ、あんなとこ。

 

 

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赤ちゃんの着物

脇を別布で補強している。

 

 

 

 

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紬の道行みたいなものかな?

紐との素材感や色の差とか

手かがりの感じがいい。

 

 

ね、

なんか愛おしいでしょう?

 

 

なにか布仕事やりそうな

そんな後押しを感じている

でも

いったんこじらせちゃってるからな~。

作れっかな~~?

 

自分の着る物くらいは

第2の皮膚として

集めてしまった愛おしい布に

命与えようか、

 

じわじわと盛り上がり中。