いちの木の小屋と山

昭和~~な小屋をリフォームしたり、山やったり畑やったり、猪捕ったり、いろいろやって生きてます

災害と日常

 

雨が降っている。

 

 

屋根の壊れた家が雨に降られる様は

情けなく

いたたまれない。

 

心地よい暮らしのために集められた

モノモノが

雨にさらされる。

 

電気で動く便利なモノが

水に濡れる。

 

雨をたっぷり含んだ土砂は

爆弾のように恐ろしい。

 

 

 

 家というのは特別な場所

 

そこが破壊されず

屋根と壁に守られ

そこにいられる限り

災害を乗り越える力を保っていられる。

 

私達を心身ともに外部から守ってくれる

とりで。

 

 

災害と日常と

どちらが非常だろうかと考え始めると

日常を繰り返し続けることができること

それもまた 非常

という考えに導かれてしまう。

 

日々、食べ物を探す生活から  

農耕などの技術と流通を確立して

こんなに高度にシステム化された生活を

日常化することを当たり前にしてしまった現代。

 

 

蛇口をひねれば流れる安全な水

コンセントをさすだけで流れる電気

 

 

 

災害からの復旧さえも日常的に備えることで

あたかもシステム化できてしまいそうな勢いだ。

 

とはいえ

一番重要なのは日常の経済活動であるから、

それもまた

非常時が過ぎれば忘れられていく。

 

 

家が破壊されない限り

現場住民でさえも

全力で保持していく日常の経済生活。

 

明日の朝の出勤。

 

 

 

私にも何かできることを、

と考えた時

自分もこの日常から飛び出ない事には

役に立たないのだ、ということにぶち当たる。

 

そこに乗ってさえいれば

滞りなく運ばれ効率よく日々を更新できるはずの日常。

 

 

 

災害によってむき出しにされた

寄る辺ない様に

私達生き物のかつてあった姿が見えてくる。

 

災害という

非情なる非日常の中で

生活の本質とは何か。

 

暮らしとは何か

 

ということに

考えをめぐらせる。

 

 

 

かつて地震被災

自宅の屋根が落ちてしまった頃のこと、

広島の豪雨による土砂崩れの際

復旧作業を傍目に仕事に出かけたことなど

思い出して書きました。

 

それから、

最近ソローの「森の生活」を読んでいるので

いろいろと考えます。